「昭和天皇論」のあとがきには「本書は『戦争論』(幻冬舎)の続編であり、『天皇論』(小学館)の前に位置づけられる作品であると言ってもいい。」という記述があります。
これは、読者としての私の実感にも非常に合致し、戦争論だけ読んだことがあるという人にはぜひ「昭和天皇論」をお勧めしたいです。
そして、個人的に「その次」として推したいのが「新・堕落論」
坂口安吾は、「堕落論」(パブリックドメインのため、スマホ画面の明るい堕落上で(笑)青空文庫やAmazon等で無料の電子書籍でも読めます)の終盤で「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。」と書いていますが、それを受けて「新・堕落論」(2017年刊)の中では「『堕落論』が発表されたのは昭和21年(1946) それから70年以上経つ。 我々は堕ちきっただろうか? 自分自身の武士道、自分自身の天皇を発見しただろうか? まだ堕ち続けなければならないのだろうか?」という問い掛けがなされています。
敗戦から80年の節目となる現在、メディアやSNSには、もはや〝骨董品的に思考停止した反戦平和〟や、その反動以上の意味を持たない「自己慰撫的日本ファースト」の言が溢れています。
坂口安吾は「坂口流の将棋観」という随筆(昭和23年)の中でこのように書いています。
(将棋に関する考察、記述の後に)
私の文学なども同じことで、谷崎潤一郎とか志賀直哉とか、文章はあったけれども、それはたゞ文章にすぎない。私のは、文章ではない。何を書くか、書き表わす「モノ」があるだけで、文章など在りはせぬ。私の「堕落論」というものも、要するにそれだけの原則をのべたにすぎないもので、物事すべて、実質が大切で、形式にとらわれてはならぬ。実質がおのずから形式を決定してくるもの、何事によらず、実質が心棒、根幹というものである。
これは、悲しいほど、当りまえなことだ。三、四十年もたってみなさい。坂口安吾の「堕落論」なんて、なんのこったこんな当り前のこと言ってやがるにすぎないのか、こんなことは当然にきまってるじゃないか、バカ/\しい、そう言うにきまっている。そのあまりにも当然なことが、今までの日本に欠けていたのである。
残念ながら、これが記されてから77年たった現在においてなお「あまりにも当然のことが欠けている日本」は継続されており、当たり前のことには全くなっていません。
それを正面から受け止め、改めて世に問うた「新・堕落論」の意義は、発刊から8年を経て、むしろ最高潮に大きくなっていると感じます。
ところで、発刊当時に、笹幸恵さんをインタビュアーによしりん先生が「新・堕落論」について語る動画シリーズがあるのですが、これが今見ても(当時よりなおさら)面白い!未読の方も、既読の方もできれば再読してから、ぜひ併せてご覧頂きたいです。
全9本!
長期休暇の時間を持て余して堕落している皆さん(ヒドい!(笑))、この機にぜひ(初回、再度問わず)ご覧ください!






















